公開: 2024年5月31日
更新: 2024年6月1日
1868年、徳川幕府に代わって日本の統治を担うことになった明治新政府は、水戸徳川家が編纂(へんさん)した皇国史観に基づいた、中央集権国家の建設を目指して、天皇を日本国家の主権者として、その臣民である全ての国民が、国家の繁栄(それは天皇家の繁栄であり、さらに全ての臣民の繁栄でもあると考えられる)を目指して、総力を結集することを提案し、一日も早く、先進諸国に肩を並べられるようになることを目標に設定しました。
その目標達成するために、日本政府は、経済の発展と軍事力の増強を目指し、「富国強兵」政策に重点を置きました。初等教育でも、その主たる目的は、将来の臣民である子供たちの知力を向上させて、経済力を拡大するため、または、軍事力を強大にするためでした。
大日本帝国憲法も教育勅語も、この「国家像」を想定して書かれました。この国家像は、日本が第2次世界大戦に敗戦するまで、日本社会では、社会の基礎として維持されました。さらに、第2次世界大戦に敗戦した後の社会でも、それを「維持すべきである」と考える人々と、「維持すべきではない」とする人々が対立していました。
第2次世界大戦後の新憲法(平和憲法)発布のとき、日本社会が「新しい国家像」を持たずに新憲法を書き上げたことが、「古い国家像を認めるか」か「新しい国家像を描くか」の2つの思想の流れを作り出しました。それは、大きな思想としては2つの潮流ですが、国家像としては2つ以上の多数になります。このことが、日本社会を混乱させていると言えるでしょう。
明治維新の国家像は、19世紀の帝国主義時代にヨーロッパ諸国に広まっていた思想を前提としたものであって、21世紀の民主主義時代の世界に適合するものではありません。そのような意味で、現代の日本の国家像として適合するとは言えないでしょう。当時は、経済においても、人口においても成長し続けていた「若い日本」でしたが、今や、日本社会は経済も人口も成長期を過ぎ、成熟期に入りつつあります。
世界においても、今や、経済においても、人口においても、グローバルサウスの代表であるインドの成長が目覚ましく、経済の規模においては、インドは、日本に追いつき、追い越す勢いで成長を続けています。そして、かつて日本を追いかけていた中国は、日本を追い越し、すでに、日本と同じように、成熟期に入っているようです。日本は、変わらなければなりません。